265日目。先日ジャズピアニストの奇才、キース・ジャレットのソロコンサートに行って参りました。たった一度きり、その場限りのメロディを即興で紡ぐジャレット氏の演奏には、その集中力を維持するために「完全な静寂」が必須とされておりますが、そのせいか開演前から会場はなんだか物々しい雰囲気に。何度も繰り返される「静かにしててよね! キースがヘソを曲げたら、あんたたちのせいだからね!(←意訳)」という脅しにも似た主催者側のアナウンスに、今のうちにやっとけ的な空咳や、さっきしたばかりなのになぜか落ち着かない尿意に、客席はテスト前の試験会場のようなざわざわ感。いよいよ明かりが落ち演奏が始まると、今度はちょっとでも咳をしようものなら吊るし上げを喰らいそうなピリピリとした緊張が漂いはじめ、本番に弱いボクは理由もなくお腹が痛くなりそうでした。
でもそんなこんなも、ジャレット氏の演奏を聴いていくうちに、なんだか当たり前のことのように思えてくるのです。「オレはアーティストだ、聴け!」「こっちは客だ、聴かせろ!」というエゴのぶつかり合いではなく、アーティストと観客がお互いに息を詰めて、初めて紡がれるメロディの誕生を見守るという非日常的な時間の共有。
微妙な例えですが、やたら高くまで積み上がってゆらゆらしている「ジェンガ」のワンピースを、さらなる高さに積もうとしているプレイヤーの指先を、周囲が黙って見つめているあの感じに似ています。その作業が難しく、その対象が儚く脆いと知っているからこそ、例え自分には何の得もなくても、誰もが息を止め成功を祈ってしまう。ジャレット氏の演奏は「ジェンガ」よりもはるかにスリリングで、危うく、そして官能的で、言われるまでもなく観客は、ただただ息を詰めて見守るしかないのです。
って、その場にいた人じゃないと全くなんのこっちゃな話かもしれませんが、繰り返し練習した成果をリピートするアウトプットと、練習で蓄えた力をその一瞬限りに最大限発揮する即興では、基本的に使う筋肉が違うのかなと思うのです。それはボクごときでも知らず知らずに日常で使い分けていて、両方をバランスよく鍛えることが大切なのだろうなと。
そういう観点から今日は前回に引き続きこの人のCDを紹介します。57日目にも紹介した矢野顕子氏が2003年にリリースしたピアノ弾き語りベスト盤『ピヤノアキコ。』。収録曲の半分以上が他のミュージシャンのカバー曲であるこのアルバムは、原曲がありつつ彼女の即興がそれに被っていくという、原曲をなぞるという筋肉と、それを壊して新しいメロディを紡ごうとする、2つの筋肉を同時に使って演奏された曲のコレクションです。
原曲を超越した彼女の自由な歌声は、ジャレット氏が演奏中に唸る遠吠えのような声にも似て、音楽という名のドラッグにすっかり蝕まれてしまったアーティストのエクスタシーの発露なのでしょう。耳覚えのあるメロディをすっかり凌駕して、二度と同じには紡がれないであろうメロディが生まれていくその様を、ボクらはただただ息を詰めて聴き入るしかないのです。