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【無人島252日目】村上春樹 『日々移動する腎臓のかたちをした石』

投稿日:2013年5月20日 更新日:

252日目。ボクがデザイナーという職業を生業にしはじめて、今年で17年になります。最近はディレクターなどという偉そうな肩書きをもらい、自分でデザインをする機会はあまり多くありませんが、それでも己の好きな分野の仕事に携わることができ、曲がりなりにも今日まで食いつないでこれた事を考えると、自分はずいぶんラッキーなほうだったと思います。ただ最近、四十路も折り返し地点が見え始め、陽の傾きかけた西の空にぼんやりと「もっと他にもなにかあったのではないか?」などと思ったり。不惑。そして天命。昔の人は偉かったワケです。

週末『ビル・カニンガム&ニューヨーク』という映画を観てきました。ニューヨークで50年以上活躍する「ビル・カニンガム」という高齢のファッション・フォトグラファーを追ったドキュメンタリー映画で、本人との交渉に8年、撮影と編集に2年の、通算10年を掛けて完成された作品なのだそう。あまり予備知識を入れずに観に行きましたが、いやはや、実に素晴らしかったです。

老職人の人生を多面的かつ鮮やかに切り取った、ドキュメンタリー映画としての完成度も素晴らしかったのですが、なによりもビル・カニンガム氏ご本人の人間的な魅力が圧倒的で、彼の発する言葉やそのポイント・オブ・ビューに、ボクはひたすら背筋が伸びる思いでした。

特に映画の後半、2008年にカニンガム氏がフランス文化省から芸術文化勲章を贈られた際のスピーチで「私のしていることは仕事ではなく『喜び』です」と語っていたのを聞いて、ボクはブスッと胸を突かれました。同時に、昔読んだ村上春樹の、ある短編小説の一節を思い出していました。

「でもね、ひとつだけヒントをあげる。私の場合もあなたと同じなの」
「僕と同じって?」
「つまりずっと以前から、小さな頃からやりたいと思っていたことを、私は職業にしているわけ。あなたの場合と同じように。ここにくるまでは決して簡単な道のりではなかったけど」
「それはよかった」と淳平は言った。「すごく大事なことだよ、それは。職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」
「愛の行為」とキリエは感心したように言った。「それ、素敵な比喩ね」

2005年に上梓された短編集『東京奇譚集』に収録された『日々移動する腎臓のかたちをした石』という短編からの抜粋です。「職業=愛の行為」であるべきという、単純だけど実践できている人はごく僅かなはずのこのイコールを、映画の中のビル・カニンガム氏は見事に体現しておりました。

家族もいない。恋人もいない。物欲も趣味も金への執着もなにもなく、ただただストイックに50年間以上「愛の行為」に耽ってきた80歳オーバーのカニンガム氏の顔は、若々しくチャーミングで、溢れんばかりの生気に満ちておりました。「そんな人生、寂しくない?」という揶揄もあるでしょうが、「便宜的な結婚」に甘んじず、ひたすら「愛」を貫いた彼の生き方は、ボクにはとても眩しく映りました。

今のボクの仕事は「愛の行為」でしょうか? 「便宜的な結婚」でしょうか? その答えが出せるのは自分しかいないのは承知の上で、西の空を見上げます。不惑。そして天命。分かっているのは、傘寿を過ぎてなお、カメラを担いでニューヨークの街を颯爽と自転車で走り抜けている爺ちゃんに、まだまだ負けるわけにはいかないということだけなのです。

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