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【無人島291日目】平野啓一郎 『マチネの終わりに』

投稿日:2016年9月3日 更新日:

291日目。「ハチくんのこと……好きって言ったら……困る?」ブーッ!(←鼻血) ただいま公開中の映画『青空エール』が悶絶するほど気になるのですが、47歳のチョンガーが一人で観に行ったら周りにご迷惑を掛けてしまいそうなので、グッと我慢してYouTubeで予告編をリピートしている2016年の夏の終わり。皆様はいかがお過ごしでしょうか? 10代の頃の恋なんて、すでに幼少期の記憶を辿るのと同じくくらい深い靄の中に霞んでいるのですが、「他人を好きになる」という生まれて初めての感情に、戸惑い、持て余し、上手く処理できずに身悶えてばかりの、甘酸っぱいというよりは苦み走った思い出が、ぼんやり見え隠れしております。そしてそれは、10代に限った話ではなく、大人になっても(もしかすると大人になればなるほど)、さらに持て余し右往左往させられる感情だったりもします。この小説を読むと、そんなことを考えさせられます。

平野啓一郎著『マチネの終わりに』は、2015年3月から今年1月にかけて毎日新聞で連載されていた恋愛小説で、4月に単行本として刊行されました。ボクは遅ればせながら、今夏じっくりと拝読させていただいたのですが、なんというか、すっかりヤられてしまいました。だってもうスゴイんだもん。

主人公は38歳の男性天才ギタリストと、40歳の海外通信社に勤める女性ジャーナリスト。知人の紹介で知り合った二人は急速に惹かれあい、恋愛に発展していきますが、女性にはフィアンセがおり、男性は仕事の壁にぶつかり、二人の恋はあと一歩というところでなかなか成就できません。やがて、距離や、時のいたずらや、周りの人間の作為によって、二人の関係は引き離され、別々の人生を歩むことに。仕事、結婚、家族、スランプ、PTSD、人種、嫉妬、芸術……。10代の恋とは違い、絡み合う様々な「大人の事情」を束ねながら、物語は6年の月日を経て、見事な大円団に向かいます。

あらすじだけ書くと、よくある焦らし系の恋愛小説のようですが、物語の背景には、バクダット自爆テロ、サブプライムローン破綻、東日本大震災といった社会情勢や、映画『ヴェニスに死す』やダンテの『神曲』、バッハの『チェロ無伴奏』といった古典芸術への考察があり、それらを通じながら、なぜお互いが惹かれ合うようになったのかが、複合的なアプローチで描かれています。「アダルトな恋愛小説」なんていうと、過激な性描写なんかを想像(期待?)してしまいますが、この小説にはそういう要素は一切なく、知的かつ詩的という意味で、とてもアダルトです。

平野啓一郎氏の作品では以前、斬新な「蘇り」を題材にした『空白を満たしなさい』を拝読しましたが、あの小説の裏テーマだった「分人」という考え方が、この『マチネの終わりに』にも通奏低音のように流れています。人は、向かい合う相手によって変わり、誰かを好きだと思うのは、その人といる時の自分自身が好きだからこそなのです。

なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。
美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?
(本文より抜粋)

シェイクスピアの時代から、星の数ほど描かれてきた「恋愛小説」は、いくら描いても満たされることのない深淵なジャンルです。何度経験しても上達せず、何歳になっても振り回される、不確かで不定義な感情。『青空エール』の良い意味で何のひねりもない青春物語も、『マチネの終わりに』の拗らせまくった中年模様も、結局は同じものを描いているのだと思うと、なんだか不思議な感じもするのです。ハチにも見えたよ!甲子園の空!

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