129日目。週末、歌舞伎座で行われた笑福亭鶴瓶の「鶴瓶のらくだ」という落語イベントを見てきました。落語ってライブで見るのは初めてのことでしたが、スゲー面白いっすね。映像や舞台装置や楽器などの力を一切利用せず、ただ話術だけで魅せるエンターテインメントっちゅうのは、独特の緊張感と世界観があって新鮮でした。それは、見る側にも受け身以上の姿勢を要求してくるので、ただボーッと聞き流していると何も残らないのです。ちゃんとその世界に入り込み、自分なりの想像力を駆使して、落語家と一緒に物語を紡ぎ上げていくという、コラボレーション。そもそもアートを作るとは何か、アートを鑑賞するとは何か。そんなことまで考えさせられてしまいました。
先週リリースされたコンセプト・アルバム「にほんのうた 第一集」。昔から伝わる日本の唱歌を、坂本龍一、コーネリアス、キセル、キリンジ、大貫妙子、あがた森魚らがカバーしました。
「赤とんぼ」「埴生の宿」「ちいさい秋みつけた」「からたちの花」など、日本人なら誰もが一度は聴いたことのある童謡を、現在第一線で活躍するミュージシャンたちにアレンジさせると、どんな楽曲に仕上げるのかという、言っちゃーありがちなコンセプトなのですが、メンツがいいのでとても面白いことになっています。ボクは1曲目の三波春夫+コーネリアスの「赤とんぼ」を聴いて、失禁しそうになりました。なんじゃこりゃ! 素晴らし過ぎる! じょじょじょー!
その他のアーティストの演奏やアレンジもオモロいのですが、同時に日本唱歌の楽曲そのものの力を再確認できるという意味でも、とても興味深いです。アルバムの中で唯一2組のアーティストに選曲された前述の「赤とんぼ」は、改めて歌詞だけ見ても、ものすごいシュールな世界観に鳥肌が立ちます。
夕焼小焼の赤とんぼ
負われてみたのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠に摘んだはまぼろしか
十五で姐や嫁にいき
お里の便りも絶えはてた
夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ竿の先
短いセンテンスの中で、感情を排して、風景と事実の描写に徹しながらも、モノすごいノスタルジーとセンチメンタリズムを表現しております。作詞は三木露風で、大正8年の作品。子供のころに父が放蕩で身を崩し、母が実家に戻ってしまい、露風の面倒を見てくれたのが、子守り娘である「姐や」で、母の代わりにオンブしてくれた姐やの背中から見た赤とんぼの思い出を綴ったのだそう。赤とんぼの思い出というより、姐や自身への思慕の歌なんでしょうな。でもそんな説明されなくても、この歌の持つ寂しさと、「あの頃には戻れない」感のようなものは、日本人なら確実にキャッチできるのではないかと思います。
唱歌にしろ、落語にしろ、俳句にしろ、お能にしろ、日本古来のアートっちゅうのは、ギリギリまで削ぎ落とされたものを差し出して、「あとはそちらで色づけしてくださいね」という、作者と受け手の共同作業のようなのものだったのでしょう。最近のドラマや映画に足りないのは、その「やりとり」というか「余白」のようなモノなのかも知れんです。