295日目。すっかり遅くなりましたが、みなさま、新年明けましておめでとうございます。年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。ボクは今年の正月休みはどこにも行かず、ケーブルテレビで録画しておいた『「北の国から」シリーズ イッキ見!放送』を延々と鑑賞しておりました。『北の国から』がスタートしたのは1981年。ボクは当時12歳で、「純くん」にズブズブ感情移入しておりましたが、この歳(47)で改めて見直すと、目線はすっかり「五郎さん」なのです。この名作ドラマは「純くん」と「螢ちゃん」の成長物語でありながら、同時に「東京に馴染めず、結婚にも失敗した中年男が、故郷でゼロから人生をやり直す」という再起の物語でもあります。テレビシリーズ開始時の五郎さんの年齢設定は45歳。あばら屋を修繕し、電気や水道を自力で引き、ドカチンしながら2人の子供と格闘する五郎さんの姿は、ボクの冷え切ったハートに、かすかな種火を灯してくれます。今からでもまだ何かできるのではないか? いや「やるなら今しかねえ!」なのではないか? そんなことを自問した2017年正月でした
『北の国から』をきっかけに、ボクはすっかり「倉本聰」氏のファンになってしまい、中学生時代には、彼が脚本を手掛けた作品を片っ端から観たり読んだり(当時脚本の書籍化が流行っていた)しました。『前略おふくろ様』『6羽のかもめ』『さよならお竜さん』『時計 Adieu l’Hiver』『昨日、悲別で』。どの作品も、間違い、悩み、屈託し、でも、情を忘れず、矜持を捨てず、ひたむきに生きる若者を主人公としたストーリーで、思春期入りたてでまだグニャグニャだったボクの自意識に、小さな道標を立ててくれました。
その中でも特にボクが好きだったのが『君は海を見たか』。1970年に倉本氏がテレビドラマ脚本として書き上げ、71年に映画化。その後82年にリメイク版として、『北の国から』と同じスタッフで、再度テレビドラマ化されました。
ストーリーは、仕事一筋で家庭を顧みなかった父親が、息子の余命が3ヶ月と告げられ、なんとか親子のふれあいを取り戻そうとするドメスティックドラマ。ボクが観ていたリメイク版では、父親を萩原健一、母親代わりの叔母を伊藤蘭、息子を『北の国から ’84夏』にも出演していた六浦誠が演じていました。
冷え切っていた父子が徐々に関係を修復していくという展開は『北の国から』も同じですが、『君は海を見たか』のほうが都会的かつ現代的で、中学生だったボクには父子のスタンスや会話がより「リアル」に感じられました。特に、かまって欲しいがゆえに他愛のない嘘をつきまくる息子のワガママっぷりは、イライラしながらも歯がゆい共感を持って観ていた覚えがあります。
ドラマの中盤、その虚言癖息子が病室で「自分で作った」と嘯いて暗唱するのが、谷川俊太郎氏の『生きる』。1971年に発表されたこの韻文詩を、ボクはこのドラマで初めて知りました。
生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
大げさでなく「詩」で心が動いたのは、この『生きる』が初めてでした。すぐに谷川氏の詩集を買い、虚言癖息子と同様に暗唱できるくらい、何度もこの詩を読みました。そうです。ナイーブさを拗らせた、ちょっと変わった中学生だったのです。
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
10年ほど前に、今回紹介する『生きる わたしたちの思い』を偶然本屋で見つけました。当時スタートしたばかりだった「mixi」のコミュニティから派生したこの本は、谷川俊太郎の『生きる』という詩に、自分たちの言葉を添えていくという趣旨で、約100人の言葉が掲載されています。詩人ではない市井の人々が持ち寄った「言葉」は、それでも集めると一つの大きな「詩」になっていて不思議です。そして今の自分なら、もしくはあのナイーブさを拗らせていた中学生の自分だったら、どんな言葉を寄せたのだろうと考えるのです。
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
ということで、新年早々『北の国から』→『倉本聰』→『君は海を見たか』→『生きる』→『谷川俊太郎』という連想ゲームを一人楽しんでおりました。きっとこの調子でぼんやりしていると、今年もあっという間に過ぎていってしまいそうです。とりあえず五郎さんのあの情熱と行動力を見習って、ボクが己に寄せるべき今年の言葉はこうなります。
生きているということ
やるなら今しかねえということ